情報整理 4.0 について
Rashita's Newsletter より
生成 AI や AI エージェントの導入により、果たして「情報整理」は、どう変わってきている/変わっていくのか?
AI を利用する場合、単に、保存した情報を後から「発見する」というよりも、過去に書いたものを材料として、情報を「再構築する」ことになるとすれば、
それに応じて、情報の整理の仕方も、変えていくべきなのかもしれません。
あるいは、思った以上に AI が優秀なら「別に、あえて整理する必要はない」といった思考にもなりがちでしょう。
いくらでも、AI に「良い感じ」に処理して貰えば良い。
また、生成 AI との「やりとり」から、ノートが「生成される」に任せるのであれば、もはや、自らノートを作成する必要さえなくなるかもしれない、というのも、重要な視点ですね。
言ってみれば、多くのノートが、AI を相手とした「議事録」に成り得る。
その上で、AI に「ノート管理を委ねる」なら、後から「AI が」利用しやすいよう、AI によって整理させるのが、ある種の「最適解」になってゆきそうではあります。
ただ、そのようにして、文章を「生成」してばかりだと、「自分の言葉」で「書き改める」ことが、疎かになりやすいかもしれません。
もちろん、AI との会話にもメリットはあると思いますが、その「ログが残っていることで、満足してしまう」のと、
ある程度まとまった「自分の言葉」にして書き残しておくのとでは、やはり、ノートの価値が、微妙に違ってくることでしょう。
人と話す場合に置き換えれば、それは、他人の書いた「議事録」を共有してもらう状態になるようなもので、自分で書いた方が「適切」かどうかはともかくとして、
少なくとも、そのプロセスにおいて、深まる思考もあれば、なんなら「そうでなければ、書かれなかったこと」も、出てくるのではないか。
つまり、知的負荷を下げることが、この場合、良いことだとは限らないわけです。
とは言え、例えば、AI とのやりとりを、毎回、すべて「自分の言葉」に直したノートを作っていたら、いくら時間があっても足りません。
むしろ、その際の「取捨選択」こそが、人間に残された、個性を発揮していくべき領域、とも言えるでしょうか?
また、上の記事の最後にも書かれている通り、
ノート作成に限らず、そもそも、そうした「情報整理」や「探索と発見」を行うこと自体が、「知的作業」でもあったのだとしたら、それを手放して良いのか?という点も、問題になってきます。
というより、普段から「それ」をやっているからこそ、思考が深まっていくのではないか、と。
しかしながら、生成 AI によって出力されたものの方が、自分の頭で考えるよりも「良い感じ」に思えるようになってきた時には、果たして、人は、どういう選択をすべきなのでしょうかね?
逆に言えば、これからの「知的生産」には、「良い感じ」で満足しない姿勢こそが、求められているのかもしれません。


